‪「言葉」を持つことは、悪いことなのだろうか‬

‪「言葉」を持つために、考え続けてきた‬

「僕は、何者だろうか」‬
「世界というものは、どう理解すればいいのだろうか」

こういうことを、ずっとずっと僕は考えてきた。

それこそ、中学入学後最初のクラス会で「趣味は?」と聞かれて「考えることです」と答えるくらいには、ずっと考えてきた。

そして、こういう問いに対して僕は自分なりに、自分の言葉で答えようとしてきた。

まことしやかに流布する言説をいちいち疑ってかかり、自分の納得がいく言葉で結論を出す、ということを続けてきた。

そして今、たくさんの経験とたくさんの人の助けを得て、ようやく「僕」ということと、「世界」ということに対して、納得感のある言葉が生まれ始めている。

ワークショップで学んだ「場」という考え方や、
演劇をとおして体験した「関係作り」の視点、
物理で学んだ、相互作用が生む「相転移」の魅力などが、それに当たる。

こういうキーワードを手がかりにして「世界」を理解できるかもしれないという発見と、こういうキーワードを大事にしたいと思う「僕」。

「世界」と「僕」が互いに結びつきながら、だんだんと輪郭を持って現れてきた気がして、僕は、嬉しかった。

先人たちの研究・活動に支えられながら、やっと“つかまり立ち”できている自分が、誇らしかった。

僕の言葉が人を傷つけた

そんなおり、衝撃的な1つの出来事があった。

僕は、演劇制作のような正解がない活動のプロセスには、ワークショップ的な場作り・ファシリテーションが有効な「言葉」になると考えている。

具体的には、問いを大事にすることや、判断の保留、といったことだ。

これは「世界」を理解する方法として僕が最近出した、1つの納得感がいく答えなのだ。

しかし、あるとき一緒に演劇を作っていた仲間に、全てが終わった後にこう言われたのである。

「あなたの公式を、わたしに当てはめないでほしかった」

衝撃だった。

僕は、公式だなんて大層なものを持ち出したつもりはなかったし、ただ、僕が大切にしたいことはこういうことである、と示したかっただけである。

それで、あなたがそれを好きか嫌いかということは、あなたが自分の「言葉」で僕に伝えてくれればいい。そう考えていた。

それが、公式、だなんて傲慢で押し付けがましいこととして捉えられていたのが悲しかったのだ。

そうか、「言葉」というものはひっそりと隠しておくべきなのかもしれない。

そう思って、そのときはとても反省した。


やりきれない思い

しかし、後になってやりきれない思いがふつふつと湧いてきた。

僕は、自分の「言葉」を持つために、ずっとずっと考え続けてきた。そして、今僕が使っている「言葉」は、僕が持っているなかで最善のものだと信じている。

どうして、それを表明することがいけないことなのだろうか?
どうしても、そういう思いが拭えなかった。

他人の言葉を「押し付け」と感じてしまう一番の原因は、自分の中にあるのではないか?

Twitterで自分に発せられたわけではない言葉にやりきれない思いを抱えるとき、それは大抵、それを嫌だと思いつつもその思いを「自分の言葉」にできていないためである。

「言葉」にできれば、生産的な議論ができるはずなのだから。

つまり、僕の「言葉」を公式と捉えて傷ついたのは、ひとえにあなたがこれまで自分の「言葉」を持つ努力を怠ったためではないのか?

自己責任だ、そう言いたくなったのである。

頭では、わかっている。
意図せずとも人を傷つけてしまったとき、傷つけられた側が一方的に悪い、なんてことはあってはならないし、真実ではない。

「言葉」を持つことで、僕が押し付けがましく人を傷つけてしまったのならば、その非は、僕にもあるはずだろう。

ただ、僕は素直に悲しいのだ。納得がいかないほど悲しいのだ。

「言葉」を持とうと必死に生きてきたこれまでの時間が、人を傷つけるためにあったなどとは、到底信じたくない。それだけなのだ。

「言葉」を持つことは、悪いことなのだろうか?
「言葉」を持たないことは、悪いことなのだろうか?

‪「言葉」を持つことは、悪いことなのだろうか‬
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