
「僕ではなく、作品を見て欲しい」
ありがたいことに僕は、大学入学からこれまで、何度も役者として舞台に立つ機会をいただいてきました。
その中で、今回初めて「僕の頑張りを見て欲しい」という個人的な理由ではなく、「この作品を見て欲しい」という作品に対する純粋な愛に駆られてnoteを書いています。
どうか、宣伝させてください。
僕という”個人”ではなく、この”作品”を観に、中野までいらして欲しいんです。
※お時間ない方は、「散策者は「読み」の可能性を信じる」まで飛ばしてください。
「新しい演技」を模索する劇団
俳優がテクストを自らの腑に落とし込み、そこから生まれた流暢な発話によって、ある種のイリュージョンがもたらされたり、生き生きとした現前が披露されたりする。そういう場こそが演劇の舞台であると、私は決して思いたくない。むしろもう一つの可能性、エクリチュールとパロールが戯れる場、幽霊のテクストと現前の身体が戯れる場、として舞台を捉えてみたい。
これは、旗揚げから1年経っていないにも関わらず散策者が「あと一歩だった作品」に選ばれたコンテスト、「CoRich!舞台芸術まつり2019春」に応募したときの演出の言葉です。(全文が読みたいという方は、こちらへ)
難しい言葉が使われているので、僕なりに少し噛み砕きます。
散策者は旗揚げ以来、テキスト(セリフ)と身体(役者)の新たな関係性を探ってきました。
一般に、テレビドラマや映画、演劇では「どれだけ良い”ドラマ”がストーリーに仕込まれているか」が大切にされます。
そのような文脈での役者の仕事は、与えられたテキスト(セリフ)をどれほど忠実に再現し、テキストが持つ魅力をどれほど引き出せるか、ということに尽きると僕は思います。
つまり、これはテキストと身体の間に
『テキストがあり、それを追従するような身体(演技)』
という主従関係が存在するように思うのです。
そのような作品を否定するつもりはないのですが、「身体がテキストを追従する構造」は往往にして”演技している感”を生み、一流の役者でない限りお客さんが観ていられる作品を作ることは難しいのではないかと思います。
では、「テキストと身体が平等である」ような演劇、とはどのようなものなのだろうか。
簡単な例ですが、お笑い芸人「ラーメンズ」のコントには、ストーリーだけではなく空間の広さや動きを使った面白さがありますよね。
その面白さを演劇に生かせるような「新しい演技」。
それを追求し続けているのが、散策者という劇団だと僕は思っています。
“Wicked Problem”に立ち向かうこと
かっこいいことを言いましたが、そのような「新しい演技」を追求することは一筋縄ではありません。
むしろ、僕は、散策者が非常に困難な挑戦をしてきたと思います。
そもそも「新しい演技」の追求には、基盤となる理論はあれど、”実践のセオリー”となるような演技論はありません。
それは「言語の通じない国で、ホテルの名前がわからないまま迷子になってしまった旅人」のようなもので、
どの交通機関(手段)を使えばいいのかわからないだけではなく、そもそも言語(フレームワーク)がわからないので選んだ交通機関が正解かすら確かめられず、おまけにホテル名(理想像)もあやふや。
旅人にあるのは、「なんとなくこういうホテルを予約した気がする」というボヤッとしたイメージ(指針)と、「俺は絶対に野宿をしない」という決意です。
この旅人のメタファーからわかるように、このように問題も解決策も明らかではない”定義不可能”な問題や状況は“Wicked Problem”と呼ばれ、非常に高度なクリエイティビティを必要が必要とされることが知られています。
つまり、散策者は「新しい演技」を見つけるために、解のない大海原を”散策”している状態で、しかし、その根底には高度なクリエイティビティが推進力として常にあり続けているのです。
散策者は「読み」の可能性を信じる
Wicked Problemに挑むとき、クリエイティビティの他に大事なものがもう1つあります。それが、「指針を持つこと」です。
旅人がボヤッとしたホテルの≪イメージ≫を持って迷子を抜け出そうとしていたように、散策者は「読み」の可能性を≪信じること≫を「指針」として挑戦を続けています。
最初に述べた、「テキストと身体が平等である」ような演劇を追求するなかで、散策者は旗揚げから一貫して、「ただ単純にテキストを読む」ことの面白さを大切にしてきました。
ドラマチックな演技が期待されるテレビドラマ・映画・演劇では、大胆な身振り手振り、激しい感情が好まれます。
しかし、最初に言った通りそれは、
テキストを身体が追従しているだけだったり、逆にテキストに書かれた「言葉」の面白さを置き去りにしてしまっている状態だったりします。
分かりやすい例が、「詩」です。
詩は、言葉1つ1つが面白かったり、詳細に読み込めば読み込むほど鮮やかにドラマが浮かび上がってきたりなど、映画などと比べて比較的「静かな」楽しみ方ができる芸術です。
つまり、詩のような静かな芸術の持つ面白さを演劇で上演することを考えると、「大きな身体表現」や「テキストに追従する身体」は途端に余分なものとなってしまいます。
だからこそ散策者では、テキストと身体を平等に扱うための指針として「ただ読むこと」の可能性を信じること、を置いているのです。
これまで計2回の上演も、「読む」を信じる、という指針を持って取り組んできました。
しかし、今回は新たな見えの「システム」を導入していることで、これまでとは一風違った作品になると確信しています。
詳しくは述べませんが、「新しい“見え”が観客の皆さんにとってどう見えるのか」が非常に楽しみで、こうやって公演のご紹介をしている次第です。
稽古場のフラットな対話が”クリエイティブ”を生む
さて、威勢良く「我々は読むことを信じる」などと言いましたが、上演できるクオリティに引き上げるためにはそれ相応のクリエイティビティが必要です。
では、そのクリエイティビティはどのように形成されているのでしょうか。
僕はその答えのカギが、稽古場にあると思っています。
散策者では、演出家は、絶対解を知っている教師でも、何でもやってくれる過保護な親でもありません。
『演出家は、演出の専門である。』
『役者は、身体の専門である。』
散策者の稽古場では、基本的に誰もこの線引きを超えません。
例えば、散策者の稽古場では、演出家は「このように見えた」「もっとこう見えて欲しい」など”見え”に関して主に発言し、”動き”に関して指示を出すことはほとんどありません。
逆に、役者は「こう動いたつもり」「もっとこう動きたい」など、”動き”に関しては発言しますが、”見え”に関して指示を出すことはありません。
同じく、いつも稽古場にいる脚本家も主に脚本について発言をし、”見え”や”動き”については多くを語りません。
つまり、脚本家・演出家・役者はそれぞれ違いを信頼し、相手の専門領域に踏み込むことがないのです。
異なる役職間でのフラットな対話は、このようにお互いを信用・信頼しているからこそ可能なのです。
フラットな対話ができる関係は、その場にいる人を”自由”にします。つまり稽古場にいる人は、自分の意見を言うことや新しいアイデアを提示することに抵抗を感じません。
そのような心理的安全が担保された場が、人間にとってクリエイティビティを発揮するのに適していることは言うまでもないことですよね。
そうしてフラットな対話を続けているうちに、必ずいつか脚本と演出と身体が繋がる瞬間、つまり「新しい演技」に対する1つの答えが見つかるのです。
日記を上演する、ということ
今回の公演は、手紙の文章を含んだ日記小説、『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』を原作としています。
(なぜ日記なのか、という質問にはこちらで答えています)
日記という文章はどこまでも面白いものです。
1人の人間が誰に宛てているわけでもなく、その日の出来事をただ綴っているわけです。
そこには、書き手の人間性や書き手と登場人物の関係性が、潜在的に、しかしながら豊かに記されています。
つまり、日記(あるいは日記小説)は、散策者の追求する「読み」の可能性を信じるという指針にうってつけのテキストなのです。
決して明言されない事柄に思いを馳せたり、想像を巡らせたりする楽しさをどう上演するのか。
どこまでも一人称的に描かれた「僕」の日記を、5人の役者でどう上演するのか。
「読み」の面白さとはどのようなものなのか。
そのようなワクワクを心に秘めて、ご覧いただければ嬉しいです。
最後に、演出家のブログを置いておきます。
彼の文章も、難しいながらとても面白いので、ぜひ一読いただければと思います。次回公演に向けて 1. 痕跡をみつめる詩人の眼 – koshiro8のブログ散策者は、今月(3月)23日から25日にかけて、『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』という作品を上演します。 なぜ今、こnakawo546.hatenablog.com
3月23日〜25日、Art Live Space SPECIAL COLORSでお待ちしております。
お申し込みはこちらから。
公演情報
散策者 第2回公演
『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』
作 新居進之介
演出 中尾幸志郎
《日程》
3月
23日(土) 15:00/18:30
24日(日) 15:00/18:30
25日(月) 16:00
《会場》
スペシャルカラーズ
《チケット》
前売・当日 ¥1,500 (一律)